うさぎ幼稚園の歴史

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1886

明治19年

11月27日、うさぎ幼稚園の前身である「駒込幼稚園」を本郷区東方町に設立
初代園長、古市静子就任

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ふるいち・しずこ/初代園長にして園の創設者。江戸末期(1847)、鹿児島県種子島の名家に生まれる。幼い頃から向学心が強く、まだ女子に勉学の自由がなかった時代にもかかわらず、周囲の反対を押し切って学問の道を志す。鹿児島に渡り、森有礼(後の初代文部大臣)の元で英語を学んだ後、さらなる学びの機会を得るため東京へ。30歳(1877)で念願の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)へ入学。その後いったん鹿児島に戻り、幼稚園の新設に携わる。助手として1年ほど勤務した後、再び上京して漢文や裁縫を教える「時習女学校」を開設(1881〜1884)。また、この頃洗礼を受け、キリスト教へ改宗している。その後、桜井女学校(現・女子学院)での奉職を経て、明治19年(1886)11月27日、本郷区東片町に「うさぎ幼稚園」の前身となる「駒込幼稚園」を設立。まだ幼稚園が10園程度しかなかった東京では先駆的な存在であった。静子女史は開園以降30年間にわたって教育と経営に当たり、創成期にあった日本の幼児教育の発展に尽力した。大正5年(1916)、園長を退任。昭和8年(1933)、教育への情熱と祈りに満ちた86年の生涯を終える。没後34年にあたる昭和42年(1967)には、日本の幼児教育の黎明期を支えた功績が讃えられ、故郷・種子島に顕彰碑が建立された。
大日本帝国憲法発布

1890

明治23年

駒込幼稚園火災消失
本郷区内竜岡町麟祥寺院内に移転し、「沖靜幼稚園」と改名

日清戦争

1899

明治32年

本郷片町へ移転

日露戦争
日本海海戦

1908

明治41年

入新井村(現在の大森)へ移転

第一次世界大戦

1916

大正5年

二代目園長、島澤雅就任
母の会発足

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しまざわ・まさ/「うさぎ幼稚園」二代目園長。明治18年(1885)、山形県山形市にて出生。その後、東京に移り、東京女子師範付属小学校(現・お茶の水女子大学付属)から同女学校へと進むも、親の事業の失敗により進学を断念。小石川幼稚園に勤務しながら、夜間は帝都教育会付属教員保姆養成所(現・竹早教員保育士養成所)で学ぶ。結婚後、明治42年(1909)から冲靜幼稚園(現・うさぎ幼稚園)に勤務。当時、入新井村(現在の大森)への移転直後で人々の幼児教育に対する理解もまだまだ浅い中、苦しい経営を強いられていた園の立て直しに奮闘する。初代園長・古市静子女史の信頼を一身に集めた雅女史は大正5年(1916)、園の運営を託され、二代目園長に就任。最新の保育理論やリズム教育の導入など、新しい試みを積極的に取り入れ、園の拡大と進展に大きく貢献した。その後、戦渦による園の一時閉鎖などの苦難を乗り越え、幼児教育と園の発展に情熱を燃やした雅女史は、昭和40年(1965)に教育功労賞、昭和42年(1967)には勲五等宝冠章を授与されている。昭和54年(1979)、95歳で永眠。生涯を通じて教育者として不断の精進を続けた人生であった。

1922

大正11年

「大森幼稚園」に改名

1922-01

移転当時はあたり一面に田畑と竹やぶが広がっていた大森駅周辺も次第に発展し、人口が増加。そのため土地に馴染み深いよう、地域の名を冠した「大森幼稚園」に改名した。

関東大震災

1924

大正13年

英会話指導開始(中村キルビー・メリー女史)

早期からの芸術教育の重要性に注目していた島澤雅園長は、さまざまな「芸能教育」を積極的に導入。とくに英語については「喉がやわらかいうちに正しい発音を教えるのが最良」と考え、幼児と小学生向けの英会話指導をいち早く取り入れた。指導にあたったのは、明治〜大正時代にかけて慶応義塾幼稚舎の英語教員を務め、晩年まで日本の早期英語教育の先覚者として活躍した中村キルビー・メリー女史。キルビー女史が考案したダイレクト・メソッドに基づく子ども向け英会話が話題となる。

1925

大正14年

図画の特別指導を開始(洋画家/版画家・永瀬義郎氏)

英会話に続いて、大正14年(1925)からは図画科を創設。講師には、美術の大衆化運動や自由画の提唱で名高い山本鼎氏、そして創作版画のパイオニアとして知られる永瀬義郎氏を招き、油絵や版画などの特別指導を開始した。

永瀬義郎オフィシャルサイト

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1930

昭和5年

洋舞踊の特別指導を開始(教育舞踊家・印牧秀雄氏/柿沢充氏)

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画像提供:柿沢舞踊研究所

続く昭和5年(1930)には、児童舞踊の研究家であった印牧秀雄氏と同門下の柿沢充氏による洋舞踊の特別指導も開始。年齢に応じた無理のない動きや踊りを実践することで、音感やリズム感を養うレッスンが好評を集める。

満州事変

1932

昭和7年

「第二大森幼稚園」設立(大森区山王)

園児が100名を超え、遠方から交通量の多い道を通って登園する子どもたちが増えてくると、父兄から交通安全対策を望む声が増加。そこで当時の「母の会」会長・四方照子夫人の厚意で山王にある住宅の提供を受け、分園となる「第二大森幼稚園」を開園。園児34名でのスタートとなった。

声楽の特別指導を開始(小笠原寿々代女史)

英会話や図画、洋舞踊などハイレベルな特別指導が受けられる保育後の芸能教室は、しだいに人気講座へと成長。昭和7年(1932)には、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の小笠原寿々代女史を招き、本格的な声楽のレッスンもスタート。近隣の小学生や女学校の生徒たちが次々と参加し、大盛況となった。

日本舞踊特別指導を開始(藤蔭静樹氏)

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声楽の特別指導に続き、日本舞踊のクラスも開講。藤蔭流の創始者である舞踊家・藤蔭静樹(ふじかげ・せいじゅ)女史による特別指導は、大きな話題を呼ぶ。藤蔭静樹女史は、日本舞踊の新しい表現を模索した開拓者であり、小説家・永井荷風との交流でも知られる著名な存在であった。
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画像提供:児玉義男「藤蔭静樹の自叙小伝」「藤蔭静樹の子」
日中戦争
第二次世界大戦
太平洋戦争

1944

昭和19年

第二大森幼稚園、強制疎開(3月)
第一大森幼稚園、戦災により焼失(5月)

日本国憲法発布

1947

昭和22年

洗足の借間で「第一大森幼稚園」を復興

日本国憲法発布

1948

昭和23年

大井で野外保育青空幼稚園を開園
半年後に20坪の園舎を新築し、「第二うさぎ幼稚園」として設立

1948-01
強制疎開、園舎の焼失といった厳しい戦渦を乗り越え、洗足の借間で園を再開してから2年。園児が増えて洗足の借間が手狭になる一方、旧園舎は疎開中に居住権を他人に取られてしまったため、大森に戻って園を再開することは困難な状況であった。そんな折、卒園生の厚意で大井出石町(現・品川区大井7丁目)の土地を好条件で買えることになり、この地に第二大森幼稚園の再建を決定。ただし、土地購入に全財産を費やしてしまったため園舎を建てることができず、開園時は石塀で囲まれた野原に机と椅子を並べただけの青空幼稚園としてのスタートとなった。
1948-02
青空幼稚園の開園から半年後、ようやく20坪の園舎が完成。ところが、品川区に移転したために「大森」という呼称が適さなくなり、園の名称を変更する必要が生じる。そこで園のシンボルとして長く親しまれてきた「おそなえ兎」のマークにちなみ、「第二うさぎ幼稚園」(現・大井うさぎ幼稚園)へと改称。多数集まってもけっして喧嘩せず、和平の象徴とされる「うさぎ」の名には、島澤雅子園長の平和への願いも込められていたと言われている。

1949

昭和24年

洗足の借間から現在地へ移転。
園舎を新築し、「第一うさぎ幼稚園」として設立

1949-01
第一大森幼稚園の一時移転先だった洗足の借間が立ち退きを迫られたため、近所の高台に新たに土地を購入。本格的な移転・再開を決定。建築家・清家清氏の設計により、大谷石のエントランスにかまぼこ型のボールト屋根が目を引く美しい園舎も完成した。この新築移転を機に、名称も「第一うさぎ幼稚園」(現・洗足うさぎ幼稚園)へと改名された。
1949-02
せいけ・きよし/日本を代表する近代建築家。西洋の近代建築と日本の伝統美を融合させた作風で知られ、九州工業大学記念講堂や軽井沢プリンスホテルなどの設計も手がける。「第一うさぎ幼稚園」の新築では、当時清家氏が助手を務めていた東京工業大学・谷口吉郎教授のご息女が当園に通っていたことが縁で設計を依頼。その後も各園の増改築や島澤雅子園長の自宅の設計の際にご尽力いただいたほか、4人のご子弟が全て当園に通われるなど、長く親交が続いた。

1953

昭和28年

第二うさぎ幼稚園増築、「大井うさぎ幼稚園」と改称

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青空幼稚園からスタートした「第二うさぎ幼稚園」では、年々園児が増加。ついに増改築が急務となる。増改築は清家清氏が担当。これを機に名称を現在の「大井うさぎ幼稚園」に改称。

1954

昭和29年

第一うさぎ幼稚園改築、「洗足うさぎ幼稚園」と改称
園児制服導入

1954-01

青空幼稚園からスタートした「第二うさぎ幼稚園」では、年々園児が増加。ついに増改築が急務となる。増改築は清家清氏が担当。これを機に名称を現在の「大井うさぎ幼稚園」に改称。

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うさぎ幼稚園で初めて制服が導入される。女子は緑のスカートに白いブラウス、男子は緑の半ズボンに白いシャツが基調。また、スカートとズボンには園のシンボルである「うさぎ」があしらわれていた。

1956

昭和31年

キンダーバスにて園児送迎開始

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より安全に園児たちが登園できるよう、キンダーバスによる園児の送迎が開始される。園のシンボルマークのうさぎが車体に描かれたキンダーバスは、園児たちや近隣の人々に親しまれた。

東京オリンピック開催

1971

昭和46年

「市原うさぎ幼稚園」設立

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創立85周年となったこの年、第三の分園となる「市原うさぎ幼稚園」が千葉県市原市に誕生。木立に囲まれた3000平米の敷地には、5つの保育室と1つの大ホールを併設した立派な園舎、そして広々とした園庭が備わり、子どもたちの教育に理想的な環境が整備された。

1979

昭和54年

三代目園長、島澤良就任

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しまざわ・よし/園の拡大と発展に多大な貢献をした二代目園長・島澤雅女史の逝去に伴い、長女の島澤良女史が三代目園長に就任。良女史は大正6年(1917)生まれ。母である雅女史の後を追うように幼児教育の道へ。以降、一貫して教育と園の運営に尽力。うさぎ幼稚園の副園長として、長きにわたって母・雅女史を支え続けた。園長就任後は、世界幼児教育機構(OMEP)に参加、欧州や中国への視察を実施するなど精力的に活動。それらの功績により、昭和58年(1983)に藍綬褒章、平成5年(1993)には勲五等宝冠章の叙勲を受ける。

2000

平成12年

預かり保育モデル事業(きんだあくらぶ)品川区より受託

品川区が実施している預かり保育モデル事業「きんだぁくらぶ」の委託を受け、預かり保育を開始。通常の保育時間の延長や、長期休暇中の保育に対応。

2007

平成19年

大井四代目園長・市原四代目園長、嶋澤雅丈就任
洗足四代目園長、園部裕子就任

2012

平成24年

洗足五代目園長、嶋澤雅丈就任

2013

平成25年

大井五代目園長、嶋澤瑞季就任

2015

平成27年

ロゴマーク、ロゴタイプ改訂

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2016

平成28年

園児制服リニューアル

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